目的地
photo credit: photophilde via photopin cc
中学や、高校で勉強している時、自分はなんのために勉強しているんだろう?
そう疑問に感じても、「大学に行くため」で丸め込まれてしまってました。
高校までの勉強は、「やりたいことができる大学、かつ就職が良い大学」に行くための勉強でした。
やりたいことも楽しみつつ、将来の就職のために大学に行く。という意味合いが強かったと思います。
大学に入れば入ったで3年のときの就職活動では、「良い企業に内定をもらう」ことが目的になっていた気がします。周りのみんなもそうでした。
ぼくが、小学生から受けてきた教育、身の回りの大人たちの導き方、それって、
「公務員か安定した会社で勤めて、家族を持ち、老後を楽しむ」
こういう人生が正解だ、みたいな感じでした。
ここで考えたいのは、
じゃあなんのために「公務員か安定した会社で勤めて、家族を持ち、老後を楽しむ」のか
多分、「人生を楽しむため」なんだとは思います。もちろんぼくも、安定した給料をもらって、家族をもって、年金で老後を楽しめれば、人生を楽しめると思います。
ただ、「公務員か安定した会社で勤めて、家族を持ち、老後を楽しむ」っていうのはあくまでも手段ですよね。
「人生を楽しむ」のが、本当の”目的”であるのに、そのための”手段”が”目的”になってしまっていた自分に気が付きました。
本当の目的を見失ってしまうほど。
周りの大人や、先生たちはその方向に進め進めと促してきました。
100m直進、信号を左折、◯◯ICで高速に乗って、◯◯IC高速を降りる、信号を右折・・・・そうすれば、最終的な目的地にたどり着けますよ
(大学へいき、安定した企業に入って、家族作って、定年まで働いて….そうすれば(人生を楽しむという)目的地までたどり着けますよ)
誰か(常識とか世間とか)が、デザインした人生の”作り方”(道順)を教えてもらっていただけで、そのデザインの意図(目的地)があまり感じとれていませんでした。
だから、ただただ言われたとおり、みんなに置いていかれないように進むしかありませんでした。
これまでの、その目的地(人生を楽しむことができる)にちゃんとたどり着ければ別によいです。
だけどこの時代、今までと同じルートでそこへたどり着くことは果たしてできるんでしょうか。
もしかしたら通行止めになっている道を、進め進めと言われるのはおかしくないでしょうか。
さらに、目的地もわかっていないかもしれない状況で。
ネットでおじちゃんおばちゃんたちがいうように、今までの道順で目的地に着くのはきっと無理なんでしょう。(無理ではなくてもかなり難しいのかな)
これからの時代、新しい道順を探さなくちゃいけないんでしょうね、きっと
だからこそ、最終目的地を知るということがまず一番大切なんだと思います。つまり、生きる意図を知る。
今まで道順しか聞いてこなくて、”どこへ向かうのかわからなかった”ぼくらだからこそ
最終目的地さえわかってしまえば、どんな道順でも自分の好きな道を選べば良い。
自分で考えて道を選ぶ、寄り道だってできるし、自分で新しい道だって作れるかもしれない
ただ今までのように、ある決まった答え(道順)に従うことはできなくなるけど
けど、きっとそっちの方が面白いとおもいます。答えを見ちゃうとつまらないですから←”なんでこんなことしているのか”
誰かがデザインした人生を送るよりか、自分で人生をデザインしたい。
良いデザインをするためには、意図が必要。
意図さえ決まれば、道なんて自然と見えてくる。
こんなかんじです。笑